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最新ニュース 地域 6月 23, 2026 読了 2分

沖縄戦で母に銃弾貫通 子の苦しみ

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6/23(火) 9:54配信両親を失った沖縄戦を振り返り、「戦争は子どもの心を痛めつける」と語る新里浩さん(右)。左は妻の惠子さん(11日、那覇市で) 太平洋戦争末期の沖縄戦の犠牲者を悼む23日の「慰霊の日」が、今年も沖縄に巡ってくる。激しい地上戦で家族を失った人たちは、世界で絶えない「現代の戦争」で犠牲となる子どもたちに自身の姿を重ね、平和への祈りを強くしている。(島田愛美) 【写真】沖縄戦「慰霊の日」、沖縄師範学校の生徒らの慰霊碑で手を合わせる大学生「どんな思いでこの場所にいたのか」 「逝く前にもう一度、『おかん』と呼びたかった」 那覇市の新里浩さん(87)は11日、戦場と化した地で避難中に被弾した母・カマドさんの苦悶(くもん)の表情を思い浮かべ、そう語った。父・康晴さんも沖縄戦の終結後に栄養失調で命を落とし、6歳にして心のよりどころを失った。毎年この時期になると、両親への思慕や戦争への憎しみなどがこみ上げ、苦しくなる。 首里(現那覇市)出身で、5人きょうだいの三男。しっかり者の母は、毎日の朝市で野菜を安く手に入れると、子どもたちに自慢した。会社勤めの父は厳格だが子煩悩で、よく歌を聞かせてくれた。「笑顔の絶えない家庭で幸せだった」 戦火が近づき、食糧が乏しくなったが、日本軍の壕(ごう)掘りに従事した父は「我々の努力が勝利に貢献できる」と誇らしげに語った。その言葉を信じ、ひもじさも耐え忍ぶことができた。 沖縄戦を指揮した日本陸軍第32軍は首里城の地下に司令部を置いていた。1945年5月下旬頃、父が日本軍は沖縄本島南部へ向かったとの情報を得た。「生きながらえるには、兵隊さんに付いていった方がいい」。祖父母を含む9人で南へ逃げることを決めた。 避難を始めて約1か月後、最後の激戦地・糸満市摩文仁(まぶに)の丘付近にたどり着いた。ガマ(自然壕)に駆け込もうとすると、中にいた日本兵は日本刀に手を掛けながら「どこかへ行け」とすごんだ。両親は懇願したが、聞き入れられなかった。 身を隠せる場もなく、合歓木(ねむのき)の下で車座になった時だった。「サッタルムン(やられた)」と母がつぶやいた。脇腹を銃弾が貫通していた。「スー(おじいさん)、この子たち……」。声を振り絞り、2歳の妹を抱いたまま前のめりに崩れた。新里さんは大声で泣き続けた。1/2ページ

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